風のローレライ


第4楽章 風の落葉

5 秘密の告白


2学期が始まっても、西崎は出て来なかった。
みんながうわさしてること、気にしてるんだろうか? それとも……。
具合が悪いってことだけど、ほんとかな? クラスのあちこちでいやなささやきが聞こえた。

でも、もっといやなこともあった。生徒指導部の富田だ。
毎朝、校門の前で服装をチェックしてる。ものさしでスカート丈を測ったり、頭髪の色やウェーブの状態を調べたりして、いやらしい質問をして来る。
「服装の乱れは心の乱れ! いつまでも夏休み気分でいるんじゃない!」
偉そうにしてるけど、こいつは屑だ。
寝ぐせが付いただけなのに、パーマを掛けたんだろうと疑われたり、校則違反だと言って、スカートを脱がされて泣き出した子もいた。
あいつがズボン脱いだとこ、写真撮れてたら、絶対さらしてやったのに……。


次の週になり、西崎は学校に来た。
でも、誰も彼女にあいさつをしなかった。何だか少しやつれたみたいな顔してる。
親戚の家にいるみたいだけど、どうなんだろ?

「今日は西崎さんも来たね。じゃあ、2学期もこのメンバーでがんばろう!」
朝のホームルームに来た武本先生が言った。でも、クラスの中はしんとしていた。ふと見ると、早苗ちゃんの机に陽が当たって、そこだけ白く光って見えた。

お昼の時間、いつもなら、西崎の机の周りにみんながさっと机をよせて来る。でも、今日は、彼女をさけるように少しずれて机をくっつけ合っている。
「桑原さん、こっち来ない?」
松井さんがさそってくれたけど、わたしは断った。
そして、机を西崎の前に付けた。
「ここ、いい?」
西崎は、顔を上げ、わたしを見ると小さくうなずいた。

「岩見沢さんの具合はどう?」
わたしが席に着くと、彼女がきいた。
「いい時もあるし、悪い時もあるみたい。でも、こないだは少し良さそうだったよ」
「そう」
彼女はそれきり黙り込んだ。

「あのさ、あんまりうまく言えないんだけど、家のこと、お気の毒にって思う。でも、元気出しなよ。リッキーが心配してたよ。あいつだって大変なのに、自分のことより、あんたのこと頼むって、何度も言ってたんだ」
「それで、頼まれたから、ここに来たわけ?」
きつい目で言う。
「別に。そういうわけじゃないよ。あんたも前に呼んでくれたから……。早苗ちゃんが入院して、わたしが一人ぼっちでいた時」

「お返しってわけ? 要は自分をよく見せたいだけなんでしょ? 自分はこんなにもやさしいんだってこと、武本先生にアピールしたいのね」
「そんなんじゃないよ!」
わたしは言った。よりによって何で武本に良く見せなきゃなんないのよ?
「ほら、そうやってムキになるところが怪しいわ」

前からひねくれてると思ったけど、不幸なことがあってもまだ、そんなこと言ってるなんて……。いったいどこまでねじくれてんだよ!
家が焼けて、両親も死んじゃったっていうから、かわいそうだと思ったのに……。
胸の奥に、何かどろどろとしたものが渦巻いた。
死んだのが、こいつの親じゃなく、うちのバカ親だったらよかったのにって……。そんな風に思っちゃったから……。そうだよ。そうしてくれたら、どんなに心が軽くなっただろう。

「もう、いい!」
わたしは机を持って、みんなの方へ行こうとした。
「どこに行くの? 今日はここでいいだろう? 僕もいっしょさせてもらうよ」
いつの間にか武本が来て、机を下ろさせた。
何て日だろう。最悪だ。

「西崎さん、いろいろ大変だったね。先生もできるだけ協力してあげるから、元気を出すんだよ」
やさしい微笑みをうかべて、先生は言った。
「ありがとうございます」
西崎がしおらしく言う。こいつ、もしかして武本のこと、好きなのかな? だとしたら、かわいそうだ。笑顔の下にある闇の顔を知らないとしたら……。教えてやろうか。武本はやめておけって……。ほんとにヤバイから……。

「桑原さん?」
急に先生がわたしの肩に手をおいたのでおどろいた。
「食事が進んでいないようだから、どうしたのかなって思ったんだけど……。おどろかせちゃった?」
先生が笑い掛ける。何か距離近すぎ!

「きっと先生のこと考えていたんですよ。桑原さん、武本先生のことが好きだって言ってましたから……」
西崎が言った。
「うそ言わないでよ! そんなこと言うわけないでしょ!」
もうっ! 何て女だろう。わたしは腹が立った。
「へえ。そうなの? うれしいよ。僕も桑原さんのこと好きだから……」
しゃあしゃあと言って、先生は卵焼きを口に入れた。

「えーっ? ずるーい! わたし達だって武本先生のこと好きなのに……」
他の女子達が騒ぐ。中には男子まで混じって言ってる。
「あは。うれしいな。もちろん、先生はみんなのことが大好きだよ。どの子もみんな、僕のかわいい生徒だからね」


昼食の時間が終わる頃、西崎が急に、気持ちが悪いと言って口を押さえた。顔色も青かったし、ほんとはまだ、具合が悪かったのかもしれない。
「保健委員、彼女を保健室へ連れて行ってあげて」
武本先生が言った。
「はい」
わたしはすぐに、彼女の脇を支えた。そう。2学期、わたしは保健委員になった。早苗ちゃんのこととか、熱心にやっているからと、武本が推薦したのだ。

「大丈夫?」
わたしは、その顔をのぞき込んできいた。彼女はうなずいたけど、苦しそうだ。
「先生もいっしょに行こう」
わたし達は、左右から支えるようにして、西崎を保健室に連れて行った。

近くまで行くと、ドアの向こうから、岸谷先生の声が聞こえた。
「そんな……。富田先生、困ります!」
でも、武本先生はかまわずそのドアを開けた。
「岸谷先生、ちょっとこの子を診てやってくれませんか? 気分が悪いそうなので……」
「はい。じゃあ、こちらのベッドに……」
彼女が手招く。武本先生は西崎を抱き上げるとベッドに寝かせた。その間に、富田は気まずそうに出て行った。やっぱり、何かしようとしてたんだ。外れ掛けたベルトを見て、わたしは確信した。岸谷先生は軽く髪を直してから、ベッドの西崎に寄りそった。その時、5時間目の始業ベルが鳴った。

「じゃあ、あとは頼みます。僕は授業に行かなければ行きませんので……」
武本が言った。
「桑原さん、ありがとう。君ももう教室に戻りなさい」
「はい」
わたしは軽く頭を下げて、そこを出た。

背後で武本先生の声だけが聞こえた。
「岸谷先生、もし、困っていることがあれば、僕が相談に乗りますよ」
相談に乗るって、どういうことなのかな? 富田と武本、どっちが危険な男なんだろ? 能力がある分、武本かな? でも、どっちも変態だってことには変わりない。西崎の奴、大丈夫かな? いやな奴だとわかっているのに、何だか気になってしまう。

午後の授業に西崎は出て来なかった。
その日は、岸谷先生と病院に行ったらしい。そんなに悪かったのかな? だったら、無理して学校に来なくてもよかったのに……。

そして、わたしはまた夜には大蛇神の連中と狩りをした。リッキーもいっしょだ。
彼は、藤ノ花の情報を欲しがっていた。それで、明彦を紹介して欲しいと頼まれたんだ。
「悪いな。アキラにもきかれたけど、学年もちがうし、その彼女のことは全く知らないんだ」
明彦が言った。
「いいっすよ。でも、どんな小さいことでもかまいませんので、何かうわさとかを聞いたら教えてください。お願いします」
リッキーはそう言って頭を下げた。
「ああ」
明彦はうなずいたけど、わたしは何だか引っ掛かるものを感じた。

そして、その勘は当たった。帰り道、わたしと2人きりになった時、明彦が言った。
「藤ノ花には手を出さない方がいい」
「何でよ?」
「あそこには、ヤバイ奴が多いからさ」
「ヤバイって?」
「変な教育してる奴いてさ。優良遺伝子がどうとか言ってさ。気持ち悪いんだ」

目の前を行く車のヘッドライトが、闇の生き物をサーチするように照らす。
「でも、それと育美さんの問題とは関係ないでしょ?」
「多分な。でも、妙な権限持ってる奴も多いよ。あ、そういえば、おまえ、姫百合中学だって言ったよな。今年から武本って先公行ってないか?」
「美術の? なら、担任だよ」
そう答えると、明彦は、何か言いた気な顔をして、じっとわたしを見つめた。
「何かされなかったか?」
「何かって?」

「あいつ、手が早いってんで有名なんだぜ。藤ノ花でもやらかしたんだ。去年、妊娠した生徒が自殺してさ。でも、そんなことはなかったことにされて、あいつにもお咎めなし。でも、さすがにまずいと思ったのか、4月から学校替わったってわけさ」
「まさか、それって育美さんのことじゃ……」
「いや。時期が合わないよ。それに、事件が起きたのは付属中の方だし……。だから、おまえも気をつけた方がいい」

妊娠させたって? あの武本先生が……。確かに、わたしも変なことはされたけど、脱がされただけで、そんな行為はされなかった。怖かったけど、それ以上のことはなかった。それだけが救いだった。
だけど、先生がそんなことをして、それで、自殺した子までいたなんて……。すごいショックだった。
やっぱり、あの男に気を許してはいけない。危険だ。よくわかった。でも……。だったらなぜ、わたしにはそうしなかったんだろう? 2人きりで、闇の風まで使って、わたしを押さえつけておきながら、何で……。


次の日の朝、新聞を見ていた夏海さんが言った。
「姫百合中学のことが出てるよ!」
「女生徒に卑猥な行為を繰り返した教師を逮捕だって……」
楓さんも記事を読んで言う。
「生徒が妊娠したことで発覚したって……」

「何て奴?」
「富田康男だって、キラちゃん知ってる?」
「富田?」
武元のことじゃなかったのか……。

「そいつ、生徒指導部だったんだぜ。吉野と並んで屑だったんだ」
うんざりしたようにメッシュが言った
「えーっ? 生徒指導部?」
「最低!」
双子が言った。そうだ。確かに富田は屑だった。でも、あいつが迫ってたのは保険の岸谷先生じゃ……。でも、もし生徒にも手を出してたんなら、本当に腐ってると思った。

富田は警察に捕まって免職になった。ふうん。警察だって悪いことした奴をちゃんと捕まえてくれるんじゃないか。
それから校門の前は静かになった。もっとも富田のせいで、マスコミが押し掛けて来て取材してたけど……。それも一時的なことだった。


9月半ばになった。早苗ちゃんのための募金は順調に集まっていた。効率よくかせいで、もう、2千万近くになっている。当座の目標は3千万だから、あと少しだ。取り合えず3千万円あれば、早苗ちゃんをアメリカにやれる。順番はなかなか回って来ないというけれど、今よりはずっと助かる可能性がある。大丈夫。きっと間に会う。みんな、こんなにも一生懸命になってくれてるんだもん。
病気の女の子の命を救うという大プロジェクト。きっと成功させてみせる。

「アキラ」
そんなある日の夕暮。平河が言った。
「これ、よかったら、おまえに……」
リボンの掛かった小箱をくれた。
「何? これ、どうしたのよ?」
「今日、おまえ誕生日だろ? だから、プレゼント」
照れながら渡す。
「えっ? いいの? ありがとう」

わたしはリボンを解いて箱を開けた。中から出て来たのはリップクリームだった。
「お袋がよくこんなの使ってたから、おまえにもどうかなと思って……」
「へえ。こんなの初めて。じゃあ、使ってみるよ」
わたしはバイクのミラーを見ながら、そっと塗った。そんな物持っていなかったから、それを唇に当てた時、すごくわくわくしてうれしかった。他の連中もいろんな物をくれるけど、平河からもらえるなんて思わなかったから……。

「何か艶々した感じ」
わたしが振り向くと平河は慌てて言った。
「あれ? どうして色が付いてるんだ? リップクリームって透明なんだよな?」
「うん。普通はね。でも、色付きのもあるって皐月さんが言ってたよ。っていうか、これって口紅じゃない」
筒の底にあるラベルには、口紅ってしっかり書いてあった。

「ごめん。おれ、この容れ物がピンクで可愛いかなって思ったんだ。でも……。その色、おまえに似合ってるよ」
「ほんと?」
わたしはもう一度バイクのミラーを覗いた。コミュニティ祭の時は夏海さんにお化粧してもらったのだけれど、自分で口紅を塗ったのは初めてだった。何だか少し大人びて、自分じゃないみたいに見えた。
「ありがと」
わたしはお礼を言って、それをポケットにしまった。

「でもね、誕生日は明日だよ」
「ごめん」
平河が謝る。
「いいんだよ。ほんとは自分がいつ生まれたのか知らないんだ。誕生日は親が適当に決めちゃったの。だから、わたしは自分の好きな日を誕生日にすることにしたんだ。だから、かまわない。今日が誕生日でも」

「じゃあさ、二人で誕生パーティーしようか。風見産婦人科病院の裏に洋菓子店があるだろ? あそこのケーキうまいんだぜ。奥にテーブルがあってケーキ食べれるんだ」
「でも、いいの?」
「他の連中にはないしょな」
そうして、わたし達はその洋菓子店でイチゴのショートケーキを買った。平河が無理言って小さいロウソクも付けてもらって、二人だけでパーティーをした。

「13才の誕生日おめでとう!」
ロウソクの火を吹き消すと、平河が拍手してくれた。誕生日。こんな風にお祝いしてもらったことなんかなかった。実は、田中家の人達がお祝いしようと言ってくれたんだけど、早苗ちゃんの手術が成功するまではって言って断ったんだ。それに、最近は大蛇神のみんながいろんな物くれるし、今は早苗ちゃんのことが大事だから……。でも、平河の気持ちはうれしかった。そういえば、初めて平河と会ったのもこの近くだったな。

外に出るとすっかり暗くなっていた。
「乗れよ。送ってくから……」
「ありがと」
わたしがバイクに乗ろうとした時、病院の脇から誰か出て来た。それは西崎だった。一人で、こっちの道路の方に向かって歩いて来る。顔色もよくなかったし、何だか足取りも不安定でおかしい。と思ったら、急に座り込んで気分が悪そうにしている。大丈夫かな? このところ、学校も休みがちだったけど……。

「西崎さん、大丈夫?」
わたしが声を掛けると彼女はびくっとして目をそらした。それからすぐに首を横に振ると急いで立ち上がろうとした。でも、やっぱり足元がふらついている。
「誰か呼んで来ようか?」
「いいの。放っといて!」

「放っとけないでしょ? ほら、つかまんなよ」
わたしは肩を貸してやった。彼女は少し辛そうだったけど、何とか公園に辿り着いた。そこのベンチで彼女を休ませることにした。
平河がスポーツドリンクを買って来てくれた。それを飲むと、西崎は少し落ち着いたらしく、ありがとうと言った。

「おれ、バイクで家まで送ろうか?」
平河が言った。
「乗せてもらったら? バイク、風を切って気持ちがいいよ」
わたしも言った。今の彼女を見てると、とても意地悪なことを言う気になれなかったから……。
「家になんて帰れないわ。家は燃えてしまったのよ。もう、どこにも帰るところなんかない……」

「親戚の家は?」
彼女は頭を振った。
「だめよ! おじさんもおばさんもすごく怒ってたから……。きっと許してくれないわ」
彼女が何を言っているのか、さっぱりわからなかった。

「本当よ。わたしはもう、家なし子になったのよ」
西崎は皮肉に笑った。
「残念だけど、桑原さん、もう、あなたのこと言えなくなっちゃったわね。だって、わたしも同じなんだもの」
何が同じだよ。お嬢様が……。世間のことなんか何も知らない温室育ちのくせに……。

「ああ、寒い……。今夜は野宿しなくちゃいけないのかしら? 公園なんかで寝たら、風邪をひいてしまう。そして、きっと肺炎を起こして死んでしまうんだわ。岩見沢さんみたいに……」
「縁起でもないこと言わないでよ! 早苗ちゃんはちゃんと生きてるよ。そして、手術は成功して絶対に治るんだから……」
「ううん。きっと上手く行かないわ。だって、そんなお金が集まるはずがないもの。そうだ。わたしが死んだら、保険金をあげる。欲の深いおばさん達にあげるくらいなら、岩見沢さんのために使った方がましだもの。どう? うれしいでしょう?」
「バカ!」
わたしはほっぺたを引っぱたいた。

「よせよ! 暴力はだめだ」
平河が止めた。でも、がまんできなかった。だって、こいつが変なことばかり言うんだもん。命を軽々しく言うのはたえられない。
「そんなお金もらったって早苗ちゃんが喜ぶわけないでしょ? 何でそんな変なこと言うんだよ!」
西崎は下を向いた。それから、込み上げる吐き気を押さえるように手を口に当てた。そして、泣き出した。

「だって、どうにもならないんだもの。わたし……」
柵の向こうを小学生達がにぎやかに通り過ぎて行った。ついこないだまで、わたしも西崎も小学生だったはずなのに、いつの間にか何か別の世界に来ちゃったみたいな気がする。中学校の校庭にはブランコもないし長い休み時間もない。制服は悲しみを吸い込んで、こんな色になっちゃったのかな? だとしたら、この制服は、育美さんとわたしの二人分だから、きっと他の人の物よりずっと濃い色が付いているんだろう。

「どこかで休んだ方がいいんじゃないかな?」
平河が言った。
「そうだね。ここからだと一番近いのはマー坊のおばあさんの家……」
わたし達は西崎を支えながら歩いてそこまで行った。


「忍! どうしたんだよ、おまえ」
その家には、リッキーがいて、西崎を見ておどろいてた。
「ねえ、今晩、ここをわたし達に貸してくれない?」
「わたし達って……。忍も?」
「そう。だから、悪いけど、あんたは今晩誰かの所に泊めてもらって。それと、メッシュに連絡しといてくれない?」
「わかった。麦茶は冷蔵庫にあるし、カップラーメンなら戸棚にあるから、好きに食べろよ。それと、夏海さんがくれたクッキーとかも少し残ってるし……」
リッキーはまだ何か言いたそうだったけど、平河に連れ出してもらった。あいつが見ていたテレビが付けっ放しになっていて、会場に集まった人達が大笑いしている。西崎はただ、ぼんやりと画面を見ていた。でも、そこに映っている番組の何も、彼女には見えていなかったのだと思う。

「あなた、見たんでしょう?」
しばらくすると、西崎が言った。
「何を?」
テレビを見ている振りをしながら言う。
「わたしが病院から出て来るところ……」
わたしは黙ってうなずいた。

「そう……」
彼女はため息まじりにうなずくと、いきなり手で顔をおおって泣き出した。
「お願い。誰にも言わないでね」
こんな気弱な態度するの見たことがなかったからわたしはもちろんうなずいた。
「約束する」
「ほんとによ」
彼女は念を押した。

「あんたがそこまで言うんだもん。誰にも言わない」
それからまた、しばらく沈黙が続いた。テレビの音がうるさい。わたしはリモコンで電源を切った。
部屋の中に柱時計の音だけが響く。おばあさんがいた時みたいに……。

「……怖いの」
消え入りそうな声で西崎が言った。
「わたし、怖くてたまらないの!」
それからまた、しばらく話は途切れた。でも、わたしはせかしたりしなかった。

「お茶でも飲む?」
西崎がなかなか話し出さないので、わたしはきいた。
「そうね。いただくわ。何だか手足が冷えるの」
わたしは戸棚の中にあったお茶っ葉をきゅうすに入れて、台所でお湯を沸かした。やかんから上がる煙が天井に届く頃になっても、西崎はまだうつむいていた。
それから、沸き立てのお湯をきゅうすに入れて、西崎の前の茶碗に注いだ。
「ありがとう」
彼女は言ったけど、すぐには飲もうとしなかった。少しお茶っ葉を入れ過ぎたかな? おばあさんが入れてくれた時より随分色が濃い気がする。よく見るとその茶碗の中で茶柱がゆらゆらしていた。立つでもなく、寝るでもない位置で傾いたままで留まっている。

彼女の手は震え、膝の上で何度も開いたり閉じたりを繰り返している。でも、やがて彼女は決心したように顔を上げて言った。
「お腹にね、赤ちゃんが出来たの」
「えっ?」
わたしは思わずその顔を見た。

――生徒が妊娠したことで発覚したって……

新聞に出ていた記事を思い出して、背中がぶるっと震えた。
まさか、彼女があの富田の被害者なの? そんなのうそでしょ?

「こんなことになるなんて思わなかったの」
彼女は目をふせると弱々しい声で言った。
「……8月の終わりくらいからずっと吐き気があって……。自分でも変だとは思ってたの。でも、家のことや両親のこともあったから、精神的なものかもしれないと思って誰にも相談出来なくて、気がついたら」
丸い蛍光灯の光が木製のテーブルに反射している。その光は少しゆがんで、得体の知れない円盤みたいに見えた。それがすっと彼女をどこかへ連れて行ってしまうような気がして怖かったから、わたしは両手を強くテーブルに押し付けた。
「急に学校で気分が悪くなって、保健室に行ったら、岸谷先生が気づいて……。いっしょに病院に行こうって……。そしたら……」
彼女が泣き出す。

「それで……。これからどうするの?」
わたしは言った。でも、それは自分の声じゃないみたいに聞こえた。
「わからない」
彼女は頭を振った。
「だけど、先生は……。わたしに産んで欲しいみたいなの」
「先生って?」
窓際にはまだ、おばあさんが育てていたリンドウの鉢が残っていた。紫の花はもう散ってしまったけど、白い花はまだ咲いている。リンドウって、秋に咲く花だったんだ。

西崎はわたしがきいたことには答えず、話を続けた。
「だけど、風見先生が、それは勧められないって言うの。無理に産んだら死ぬかもしれないって……」
「死ぬ……?」
頭の中に、おばあさんの死に顔が浮かんだ。白く透き通って、やさしそうだけど、どこかよそよそしい感じのする……。

「死ぬのはいやよ! 怖いわ。すごく怖い!」
「忍……」
わたしは思わずそう呼んだ。それから、彼女の隣に行ってすわった。すると忍は、わたしにすがり付いて来て泣いた。わたしは、どうしたらいいのかわからなかったけど、そんな彼女の背中を恐る恐るなでた。
何でこんなことになってるんだろう。遠くでバイクの警笛の音が聞こえる。ふと見ると、サイドボードの影になっている柱に何か書いてあった。わたしはそれを目で追った。マーくん6才。そこに引かれたえんぴつの線はもうずい分うすくなってるけど、その上にも7才とか10才とかの数字と線が見える。これっておばあさんが書いたのかな? 6才のマー坊も10才のマー坊も、もういないのに……。どうして印を付けるんだろう。

「悪いと思ってるの。武本先生にも……」
彼女は少しだけ顔を上げて言った。
「武本ですって?」
彼女がうなずく。
「先生はやさしくしてくださったわ。だから……わたし、先生の赤ちゃんを……」
忍は自分のお腹に手を当てた。

――あいつ、手が早いので有名なんだ

明彦の言葉が、胸に空いた細いトンネルをくぐり抜ける。
「あんた、それだまされたんだよ」
柱時計の音が大きく鳴った。
「何言ってるの? 武本先生は立派な方よ。わたし、裕也のことが好きだったけど、武本先生は大人で、とてもやさしくしてくださって、わたしのこと好きだって言ってくれたの。愛してるって……それで……」
忍は真剣だった。だけど、そんなの変だよ。だって、わたし達は中学生なんだよ。まだ大人になるための準備も出来ていない。
「あの男はそうやってみんなをだましてるんだよ。現にわたしにだって言い寄って来たんだ。好きだよって……」
でも、彼女は信じなかった。

「先生はおやさしいから、好きだってことくらいみんなに言うでしょうよ。でも、わたしはちがうの。先生にとっての特別なのよ。あなたにはない特別なの!」
忍は言い張った。
「でもね、あいつは前の学校でも同じことをやらかして、いられなくなったって聞いたんだ。ちっともいい奴なんかじゃないよ」
「やめて!」
忍は強く言った。

「先生のこと、悪く言わないで! あなたに何がわかるの? 武本先生の一体何が……」
彼女はわめいた。
「知ってるよ。あの男はやさしい顔の裏に闇を持ってる。わたし達中学生を食い物にしてる変態なんだ!」
「やめて!」

彼女が振り上げた手に茶碗が弾かれ、わたしのスカートにお茶がこぼれた。
「熱い……!」
わたしはとっさに西崎を突き飛ばした。

――おかあさん、あつい! あついよ! ごめんなさい! ゆるして!

いやなことを思い出した。煮立ったお湯と甲高く鳴るやかんの音……。そして、あのバカ親のこと……。
いやだ! こんなのは、もういや!

「……痛い」
それは、こぼれたお湯のせいだったのか、それとも昔の記憶のせいだったのかはわからない。けど、心が震えてがちがちと鳴った。
「桑原さん……?」
忍はおどろいてわたしを見てる。

「大丈夫?」
おどおどしながら言う。
「いいよ! 平気だから……さわらないで!」
「でも……。ほら、膝が赤くなってる。スカートを……」

忍は強引にわたしのスカートをめくった。
右の太股が少し赤くなってひりひりした。でも、彼女の目が釘付けになっているのは、ずっと昔に付いた傷と火傷の跡……。
「見ないで!」
わたしは急いでスカートを膝まで下げた。ぬれてたけど、もう熱くない。

「だめよ。冷やさなきゃ……」
忍は台所に行くと、ハンカチを濡らしてもどって来た。そして、わたしのスカートをめくって赤くなっている肌に当てた。ハンカチはすぐに温まった。すると彼女はまた台所に行く。そうして何度か同じことを繰り返す。
「ほんとは、流水で冷やすのが一番いいのだけど……」
傷のことは何もきかなかった。
「いいよ。あんた、気分が悪かったんでしょう? あとは自分でやるよ」

わたしは立ち上がってお風呂場へ行った。前にここで、あたたかくて、お湯がたっぷり入った湯船につかった。おばあさんがいたころに……。
でも、今、そこはがらんとして冷えていた。わたしは水道の蛇口をひねって水を出すと、足にかけた。
こんなの大したことない。痛いのも熱いのももう慣れてる。でも……。
そういえば、武本も何も言わなかった。わたしの体にある傷跡を見ても……。だからって、許せるはずがないけど……。

でも、西崎はもっとはずかしいことされたのかな?
赤ちゃんが出来るようなこと。
なのに、何で平気でいられるんだろう?
あんな男のことかばったりして……。

――わたしはちがうの。武本先生にとっての特別なのよ

特別……? どうしたら、そんな風に思えるんだろう? わたしは誰かにとって特別になれる?

――13才の誕生日おめでとう!

平河……。

――私こそがあなたに最もふさわしい

いやだ。浮かんだ武本の顔をあわてて消した。

その夜、忍とわたしは一つの布団で眠った。布団が一組しかなかったからだ。
「……わたし、人殺しになっちゃうのかしら?」
夜中にぽつりと忍が言った。
「お腹の赤ちゃんを堕ろしたら……人殺しになる?」
わたしは黙っていた。

「でも、仕方がないのよ。そうしなければ二人共助からないって……。赤ちゃんには悪いけど、わたしはまだ死にたくない。だったら赤ちゃんを犠牲にするしかない。ひどいと思う?」
わたしは首を横に振った。
「エゴだと思うわ。でもどうしようもない。選びたくなくても、選ばなきゃならない時がある。それがたとえエゴだったとしても……」
忍は涙を流していた。その手をじっとお腹に当てて……。

「……人殺しなのはあんたばかりじゃないよ」
わたしは忍の手に自分の手を重ねた。
「堕するなら早い方がいいって医者が言うの。だけど、今はお金が……」
忍はそう言い掛けてやめた。
「でも、今夜はもう眠りましょう。わたし、とても疲れたわ……」
忍……。もしかして、さみしいのかな? わたしにこんなこと話すなんて……。

――堕ろすにはお金が

ずっとお金持ちって言われてたのに……。でも、本当はお金なんて物は初めから、幻想みたいな物なのかもしれない。なければ困るけど、特に早苗ちゃんの手術をするためには必要な物だけど……みんな、そんな物のために必死になってるのがおかしい。

家の外で吹く風が窓を揺らす。そして、頭の中に吹く風が記憶を映す。本当は、わたし達って何も持っていないのかもしれない。この手や体や心はみんな借り物でしかないのかもしれない。だから、時々、心が空っぽになる瞬間があるのかな。

わたしは布団から手を出してまっすぐ上に伸ばしてみた。指先まで張り詰めた神経。でも、それは本当に全部わたしのものなのかな? 命がどこから来たのか、わたしは知らないけど、来た所があるのなら、帰る所もあるんだよね。そこでなら、幸せな時間が過ごせるのかな。そうだったらいいなと、わたしは思った。